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東京地方裁判所 昭和38年(ワ)2260号 判決 1966年10月20日

原告 吉川孝子

被告 国

訴訟代理人 横山茂晴 外三名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事  実 <省略>

理由

第一、原告が昭和二六年六月七日以降被告に雇用され、その後在日米陸軍補給廠G-4マシン・アカウンテイング・ブランチのI・B・Mマシン・オペレーター・システム・サービスとして勤務中何れも原告主張のとおりの理由で、昭和三五年七月九日以降暫定出勤停止の措置を受け、ついで昭和三七年一〇月一四日本件解雇、すなわちいわゆる保安解雇の意思表示を受けたこと、及び本件解雇当時日米両国政府間に締結されていた「アメリカ合衆国軍隊による日本人および通常日本国に居住する他国人の日本国内における使用のための基本労務契約」の細目書F節1項aないしcにおいて、いわゆる間接雇用の駐留軍労務者(後記)に対する保安上の解雇基準につき原告主張のような規定があつたことはいずれも当事者間に争いがない。

第二、そこで、本件解雇の効力を判断する。

一、先ず、原告は、前記基本労務契約の細目書F節1項aないしcの解雇基準は保安解雇に関し被告の解雇権を右基準該当の事実が存在する場合だけに実体的に制限するものと解すべきことを前提として、原告には右基準に該当する事実がなかつたから、本件解雇は解雇権の制限に違反したもので無効であると主張する。

しかしながら、<証拠省略>によれば、前記基本労務契約及びこれに附属した細目書においては、アメリカ合衆国軍隊が日本国内でその労務に服させるため被告から提供を受けた日本人および通常日本国に居住する他国人、すなわち、いわゆる間接雇用の駐留軍労務者を保安上危険であるという理由で解雇するのを正当と認める場合には、右軍隊の保安上の利益に反しないときを除き解雇理由を具体的に明示しないで、単にその労務者が該当すると考えられる細目書F節1項aないしcの解雇基準のみを示して日本側に通知して意見を徴すべく、解雇に至る手続についても、日本側は右軍隊が保安上危険であるとみなされる解雇基準に該当する事実の存否に関してする判定に異議があるときでも、反対意見を述べる機会が与えられているだけで、右軍隊の要求があれば直ちにその労務者について保安解雇措置をとるべき旨を規定していることが認められるから、結局のところ被告は前記基本労務契約及びこれに附属した細目書によつて、アメリカ合衆国軍隊に対し保安解雇の基準該当事実の存否に関する最終認定権を与えたものと解すべきである。してみれば、前記基本労務契約及びその細目書の規定している解雇基準は間接雇用の駐留軍労務者を保安上の理由によつて解雇し得べき場合を限定したものではあるけれども、その労務者が解雇基準に該当するか否かの最終認定権は専ら右軍隊に属する結果として、右基準該当の事実が客観的に存在すると否とに拘らず、いやしくも右軍隊において保安解雇の基準該当事実が存在すると最終的に認定して日本側に解雇を要求すれば、日本側はその労務者を保安解雇せざるを得ないものと解すべきである、それならば、前記基本労務契約及びその附属細目書によつて保安解雇権を前記基準該当の事実が客観的に存在する場合だけに実体的に制限したものと解することは到底できないから、原告の前記主張はこれを採用し得ない。

もつとも、たとえ基準該当事実の最終認定権が前記軍に与えられていても、右認定が全く合理性を欠くことが明白な場合は条理上これに基く保安解雇は無効と解すべきであるが、原告に関する右認定が全く合理性を欠くことが明白であると認めるに足る証拠はない。

二、次に原告は、吉川一春が元全日本駐留軍労働組合神奈川地区本部相模支部執行委員長であつて、同人に対する解雇は同人の組合活動の故になされた不利益取扱であるところ、本件解雇は同人が原告の夫であることを理由とするものであるから無効であると主張する。

なるほど、駐留軍労務者であつた原告の夫吉川一春が昭和三二年七月細目書F節1bに該当するとして被告から保安解雇されたことは前示のとおりであり、同人が解雇当時原告主張のとおりの組合役職にあつたことは当事者間に争いがない。しかし、同人に対する解雇がその組合活動の故になされた不利益取扱であることについては、同人に関する右保安解雇基準該当の認定が全く合理性を欠くことが明白であると認めるに足る証拠がない以上事実上の推定の働く余地はなく、これを認め得ないから、これを前提とする原告の右主張は、その余の点について判断を加えるまでもなく、採用できない。

三、そこで、進んで、本件解雇は原告の正当な組合活動の故をもつてなされた不利益取扱であるから無効であるという原告の主張について検討する。

1  原告の組合経歴などについて

<証拠省略>次の事実を認めることができる。

原告は、当初軍横浜技術廠相模本廠のストツク・コントロール・デビジヨンに勤務した(この点は当事者間に争いがない)。当時同職場に労働組合組織はなく、原告は、昭和二八年三月頃、同職場の相沢千代子らとともに組合設立準備委員となつて後記のように組合結成運動に加わり、同職場の従業員が全日本駐留軍労働組合横浜技術廠相模本廠分会に一斉加入するや(この一斉加入の点も当事者間に争いがない)、原告はストツク・コントロール・デビジヨンの職場委員に選任された。昭和二九年三月前記分会が同じ基地内の他の軍関係労働組合と統一合同して全駐留軍労働組合神奈川地区本部相模支部が発足するや(この合同発足の点もまた当事者間に争いがない)、原告はその後はストツク・コントロール・デビジヨン(昭和二九年マシン・レポート・デビジヨンと改称)の職場委員として昭和三〇年三月まで、同年四月以降は昭和三四年一〇月まで支部委員に選任せられていた。当時支部委員は約三〇名でそのうち女性は一名ないし四名であつた。

2  原告の組合活動などについて

(1)  岸節子解雇反対、ステネツト追放闘争について

<証拠省略>次の事実を認めることができる。

昭和二八年三月頃原告はキイパンチ職場に勤務していたが同職場とともにストツク・コントロール・デビジヨンに属するインカミング職場のチーフにステネツトという軍属があり、ステネツト軍属が同職場の従業員岸節子の解雇を主張したのに対し、日本人従業員が右解雇に反対するとともにステネツトを追放しようとする運動を起した(ステネツト軍属が前記のような職場のチーフであつたこと以外はすべて当事者間に争がない)。その際、原告は、当時同じキイパンチ職場に勤務していた相沢千代子とともにインカミング職場で活躍していた井上時夫、主として同職場で活躍していた杉山厳などの抗議運動を支援し、キイパンチ職場を中心とする従業員に説いて署名運動に加わつた。

しかし、原告が相沢千代子とともに前記抗議運動の中心となつたこと及び労管交渉に積極的に参加したことを認めるに足る証拠はなく、かえつて前記抗議運動がインカミング職場の従業員を中心とするものであつたことは前段に認定したとおりであり、<証拠省略>によると、原告は、昭和二八、九年たまたま六、七名の女性とともに団体交渉を傍聴することはあつても発言の度数は少なく、四、五十名ときには二、三百名の傍聴者の中では無口な方であつたことが認められる。

(2)  組合結成について

<証拠省略>によれば、原告は、昭和二八年三月前記(1) 岸節子解雇に対する抗議運動のあと、ストツク・コントロール・デビジヨンに労働組合を結成しようとする運動が杉山巌、桐生増三らによつて起された際、その一環として前記相沢千代子らとともにキイパンチ職場の従業員の組織化につとめ、同年五月一日には同職場の従業員中一名を除く全員が前記のとおり全日本駐留軍労働組合横浜技術廠相模本廠分会に加入するという成果を挙げた。

(3)  井上時夫解雇反対闘争について

昭和二八年六月前記井上時夫が勤務に不適格であるという理由で解雇され、同人の解雇に反対する署名運動が行われたことは当事者間に争いがない。けれども、原告が、杉山千代子とともに右署名運動の責任者であつたことを認めるだけの証拠はなく、かえつて、<証拠省略>によれば、原告は、杉山巌を責任者とする(杉山巌が右署名運動の責任者であつたことは当事者間に争いがない)署名運動に加わつてキイパンチ職場及びI・B・Mのマシン・ルームに勤務している従業員から井上時夫の解雇に反対する署名を集めたが、その後この運動が軍の知るところとなり、発見された署名簿は軍に没収され、ストツク・コントロール・デビジヨンの全従業員が勤務時間中中庭に集められた上、「前記署名運動は不当であるから許可しない。将来軍の職場でその許可を受けることなく、このような署名運動をしてはならない。」と軍から厳重に注意された際、他の従業員から二、三歩前に立たせられて注意を受けた者は杉山巌のみであつた事実を認めることができる。

(4)  職場における日常闘争について

昭和二九年四月頃キイパンチ職場で二交替制がとられていたことは当事者間に争いがなく、女性労働者から軍に対し午後一〇時以後の勤務をさせることを止めるように申入れがあり、即時そのように改められたことは被告の自陳するところであるけれども、女性労働者に午後一〇時すぎまで勤務させないように原告及び杉山千代子が労管交渉をし、また、同職場の日本人責任者である大里某及びI・B・Mセクシヨンの主任軍属ビーラーにも交渉したという証人杉山千代子の証言の一部は<証拠省略>信用することができず、他に原告が右申入れに関し特別な活躍をしたことを認めるに十分な証拠はない。

次に、<証拠省略>によれば、原告は当時子を出産したキイパンチ職場の従業員星野イサ子のためにマシン・ルーム・デビジヨン人事課に申出て育児時間をとる請求をしたことを認めることはできるが、そのときまで軍が育児時間を認めていなかつた等請求が困難であつたことの証明はない。

更に<証拠省略>によれば、昭和三二年からキイパンチ職場従業員が一名あるいは三名と他の職場に配転されていたが、昭和三四年四月頃にはその方針が強力に行われるようになつたこと、同職場は一年中湿度を一定に保たれるために温度の高低の差が大きく、外界と差が著しいので同職場で勤務する従業員の疲労が大きかつたことを認めることができる。しかし、原告が中心となつて右配置転換反対、環境改善につき絶えず労管交渉、軍交渉を行つたという事実については、<証拠省略>他にこのような事実を認めるだけの証拠はない。

(5)  職名変更闘争について

<証拠省略>によれば、原告の所属しているI・B・M関係の職場において、機械操作のため採用された者が訓練期間中事務職クラークに格付けされたこと等につき不満を生じ、適正な格付けを求めるためいわゆる職名変更闘争という闘争が行われた際、原告はそのための集会の議長となつたこともあり、また対軍、対労管交渉に参加したことを認めることができる。

(6)  ランバート軍曹追放闘争について

<証拠省略>によれば、昭和二九年七月頃から同年九月頃までの間に、前記I・B・M関係の職場に勤務している従業員を以て組織する職場大会が三回に亘り救急箱の設置、通勤用自転車置場の設置、夜勤終了時労務者にバスを使用させること等の要求をまとめ、その際原告が議長や大会書記を勤めた事実を認め得べく、また、<証拠省略>によれば、軍は、右I・B・M関係職場従業員の職場大会について「職場大会」という名称を使用しないように申入れたりマシン・ルーム・キイパンチ両職場の監督をしていたランバート軍曹は土曜日の午後職場大会の予定されていた時、残業を命じたり、キイパンチ職場に監視のみを任務とする兵士を配置したり、同職場の組合員でもあつた日本人係長増田三枝をマシン・ルームに左遷しようとしたりしたこと及び職場大会において右増田三枝の左遷に反対し、ランバート軍曹の追放を要求することが決議されたこと、原告がキイパンチ職場の杉山千代子、マシン・ルーム職場の増田恒雄、田原義堂などとランバート軍曹の追放署名運動に参加したことを認めることができる。しかし、増田三枝の問題を職場大会に持出したのが原告であること及び原告が右署名運動の中心であつたことはこれを認めるに足りる証拠がない。

(7)  増田恒雄解雇撤回闘争について

増田恒雄が昭和二九年一一月一八日カードの虚偽記入の理由で徴戒解雇されたが、右解雇はその後撤回されたこと、及び同人が昭和三〇年九月一五日保安解雇されたことはいずれも当事者間に争いがなく<証拠省略>によれば、増田恒雄が当時マシン・ルームの職場選出の支部委員であつたこと、職場大会において増田恒雄徴戒解雇の撤回闘争をすることが決議されたこと、労管交渉の結果労管係官も右解雇の撤回を交渉するに至つたことをそれぞれ認めることができるが、原告が職場の代表者として軍交渉をしたという証人杉山千代子の証言の一部は証人村松佳一の証言と対照すれば容易に採用することができず、他にこれを認めるだけの証拠はない。

(8)  サークル活動について

<証拠省略>によれば、昭和三〇年四月頃から、原告は支部の職場委員会が新組合員を獲得するためマシン・ルーム・デビジヨン勤務者を中心として行つたサークル活動に参加し、特に読書会の事実上の責任者として図書を選択し、七、八名集まつて感想を語りあう会を指導したことが認められる。

(9)  山川弘子解雇撤回闘争について

山川弘子が昭和三一年五月解雇され、後右解雇が撤回されたことは当事者間に争いがなく、<証拠省略>によれば右解雇の撤回につき原告が署名運動、労管交渉に参加したことを認めることができる。

(10) 相沢千代子解雇撤回闘争について

昭和三一年七月相沢千代子が保安上の理由で出勤停止の措置を受け、ついで解雇されたことは当事者間に争いがない。そして、<証拠省略>によれば、この解雇の真の理由が右相沢の組合活動にあつたこと、原告が昭和三一年七月「相沢千代子を守る会」を組織してその会長となり、マシン・レポート・デビジヨンの職場大会を開いて前記解雇処分撤回を要求する署名運動等を行う旨決議させたこと、右解雇処分撤回要求の対軍交渉の際原告がキイパンチ職場を代表してマシン・ルーム職場の代表者らとともに主として発言したこと、右要求についての労管交渉にも参加したことをそれぞれ認めることができる。

(11) 制裁規定反対闘争及び (12) 賃上げ闘争について

昭和三一年八月二七日支部が制裁規定実施に反対してストライキを実行したこと及び昭和三二年四月支部が賃上げに反対してストライキを実行したことはいずれも当事者間に争いがない。しかし、これらの各ストライキの際、原告がマシン・レポート・デビジヨンのピケツテイング隊の行動班長として各闘争に参加し、同職場約二〇名の青年行動隊を指揮し、宣伝カーでピケツテイング隊を激励したり、あるいは、キイパンチ職場の組合員のピケツテイング隊を指揮したりしたことを認めるに足る証拠はない。

(13) 不当解雇反対闘争について

<証拠省略>によると昭和三二年五月、当時支部執行委員長であつた吉川一春、同じく支部執行委員であつた田原義堂及び谷川安政が保安解雇され、その反対闘争としてストライキが実行された(吉川、田原、谷川の各役職以外の点は当事者間に争いがない)際、原告はMRD職場大会の確認した署名運動を実行し、第二ゲート(南門)前にやぐらを組んで行われたすわり込みには女性として唯一人参加したことが認められる。

ところで、田原義堂がMRDの組合員選出の組合幹部であることは当事者間に争いがなく、<証拠省略>によれば、原告がその頃キイパンチ・セクシヨンの代表として他のセクシヨンの代表者とともにMRDのチーフ、フアーラー少佐に前記保安解雇の理由を問いただした事実を認めることはできるが、原告が他の活動家とともにMRD職場大会を開き、右大会で交渉委員に選ばれたこと及びフアーラー少佐との交渉にキイパンチ・セクシヨンの従業員全部を説得して参加させたことを認めるに足る証拠はない。

(14) サマータイム反対闘争などについて

<証拠省略>によれば、支部が昭秘三四年六月サマータイム切りかえによる勤務時間の変更に反対し、次で同年一一月政府雇用から民間業者雇用に変更されることに反対して各ストライキを実行した(この点は当事者間に争いがない)際、原告は自らピケツトラインに参加しあるいは職場の組合員にピケツテイングに参加するよう呼びかけるなど教宣説得活動を行つたことを認めることができる。

(15) 組織活動について

(証拠省略しによれば、原告は昭和二九年五月頃から発行された支部文化部の機関誌「はなのわ」その後同じく機関誌「こだま」の編集委員として編集に従事し、また昭和三〇年四月頃からフオークダンスの中心となつていた(読書会については前記(8) のとおり)ことを認めることができるが、原告がコーラスを組織したことを認むべき証拠はない<証拠省略>。

3  原告の組合運動に対する軍の態度について

(1)  <証拠省略>によれば、昭和二八年一二月支部が日米労務基本契約改訂を要求して四八時間ストライキをした際原告が青年行動隊の一員としてピケツトを激励してまわり、一緒に歌を歌つたり、その音頭をとつたりしていると軍関係者が基地の門近くの電柱に登つてその写真を撮つたこと、昭和二八年一二月頃原告がピケツテイング・ラインから当時居住していた基地内の寮に帰つてくると寮の管理人が立入りを阻止したこと、当時軍の契約担当官代理名義でピケツテイング参加者は寮に立入らせないという通告書が発せられていたことをそれぞれ認めることができる。

(2)  原告本人の供述の一部を前記三2(2) の事実及び弁論の全趣旨と総合すれば、昭和二八年五月頃ストツク・コントロール・デビジヨンの主任軍属であつたビーラーが支部関係者である杉山巌、桐生増三らのキイパンチ職場で相沢千代子、原告などと話しているのを休憩時間中も監視することがあつた事実を認めることはできるが、相沢千代子、原告らの氏名を記載したリストが当時ビーラーの机の上にあり、原告らが便所に行くにも監視されたという<証拠省略>各供述の一部は採用することができず、その他これを認めるだけの証拠はない。

(3)  <証拠省略>によれば、前記三2(6) のランバート軍曹追放闘争の当時同軍曹は、同棲していたキイパンチ職場の一従業員を通じて同職場集会の日時、場所、同集会における支部組合員の発言内容等を知り、自分は誰がガタガタやつているか隠されてもわかつていると言い、土曜日の午後基地外の組合事務所において原告らが開いていた職場集会にも顔を出した事実を認めることができる。

(4)  <証拠省略>を総合すれば、昭和三三年一月頃からキイパンチ職場において、勤務時間中に二〇分以上話をする場合には仕事の話でも届出を要求され、朝の出勤時間を厳守せよなどという命令が出たことは認めることはできるが、原告主張のような各禁止命令が出されたこと及びこの頃から軍がキイパンチ職場の支部組合員を監視する兵隊を特に配置したことを認めるに足る証拠はない。

(5)  <証拠省略>によれば、MRDのアシスタント・チーフ、ミセス・ポープが昭和三三年一月頃特に原告に注目していた事実を認めることができる。しかし、<証拠省略>各供述中右注目が原告の組合活動によるものである旨の部分はいずれも単なる推測であつて、これを裏付けるに足る事跡に触れていないから採用することができず、その他原告の名前が軍監督者間に申し継がれ、原告主張のような確認及び監視がなされたことを認めるに足る証拠はない。

(6)  キイパンチ職場において昭和三三年六月頃まで勤務交替の際の休憩時間に全従業員の話し合いが行われていたことの証明はないが、<証拠省略>の一部によれば、昭和三三年一月頃キイパンチ職場従業員の机の中からMRDのチーフ串山の名を記載した紙片が発見されたことに端を発して一切の印刷物の職場内持込が禁止され、休憩時間中でも三人以上集まつて話しをすることを禁止する軍の命令が発せられたことを認めることができる。

(7)  <証拠省略>によれば、昭和三三年頃キイパンチ職場をも監督していたロス軍曹は、同職場を特に厳しく監督する必要があると言つて同軍曹の隣室の小部室に移動させた事実を認めることはできるが、同軍曹が当時「キイパンチは文句ばかり言う。」と言つたという事実を認め得る証拠はない。

(8)  原告が昭和三五年二月から五月まで出産のため休暇をとつたことは当事者間に争いがなく<証拠省略>によればその間キイパンチ職場には分会委員が約三名いたが、原告が休んでいるので、分会委員会等を開催するにあたり、連絡、出席等がよくなかつたことを認めることができる。しかし、同証言のうち、その間キイパンチ職場における活発な組合活動が原告を欠いたため俄かに停滞するに至り、軍は右職場会の組合活動における原告の役割を認識できたという部分は容易に信用することができず、その他これを認めるに十分な証拠はない。

4  そこで、本件解雇が原告の正当な組合活動の故になされた不利益取扱であるか否かについて判断を加える。

先ず原告の組合経歴は昭和二八年三月以降同三〇年三月まで職場委員、昭和三〇年四月以降同三四年一〇月まで支部委員をつとめたものであること前認定のとおりであつて、<証拠省略>によれば職場委員は組合員約五名に一名、支部委員は組合員約二〇名に一名の割合で選任されることが窺われるけれども、本件解雇は原告が支部委員でもなくなつた後約三年を経てなされているのであるから、原告の組合経歴のみから本件解雇を原告の組合活動の故になされたものと推断することは早計であるといわなければならない。

そこで、次に、原告の組合活動をこれに対する軍の態度との関連において通観する。

まず、前記第二、三2(1) の岸節子解雇反対、ステネツト追放闘争は杉山巌などインカミング職場を中心とする日本人徒業員の抗議運動を支援して署名運動に参加しただけに過ぎない。また、原告は、同(2) のようにキイパンチ職場の組織化に相沢千代子とともに参加し、成功したが、そのため特に軍側から注目された形跡はない。もつとも、昭和二八年五月中当時ストツク・コントロール・デビジヨンの主任軍属であつたビーラーにおいて杉山巌らがキイパンチ職場で相沢千代子や原告と話しているのを休憩時間中も監視していることがあつた(前記第三、三3(2) 参照)とはいえ、ビーラーの地位が右のとおりであること及びキイパンチ職場組織化は、当時訴外杉山巌、桐生増三らが主となつて行つていた同職場を含むストツク・コントロール・デビジヨン全体の従業員を組織化しようとする運動の一環として行われたに過ぎないものである事実(前記第二、三2(2) 参照)をあわせて考えれば、ビーラーの右監視は原告や相沢千代子に対するよりはむしろ杉山巌、桐生増三らに向けられていたものと認めるのが相当である。また、同(3) の井上時夫解雇反対闘争の署名運動についても、その責任者として軍から注意を受けた者は杉山巌のみであつて原告は責任者でもなく、且つ注意を受けた事実もないこと前認定のとおりである。次に前記第二、三3(1) の如く日米労務基本契約改訂を要求して支部が昭和二八年一二月四八時間ストライキをしたとき、ピケツトと共に歌を歌つたり音頭をとつたりした原告の行動が軍関係者によつて写真におさめられたこと及び当時原告らがピケ参加後基地内の寮に帰ると管理人に寮への立入りを阻止されたこと等前認定の諸事実を総合すると原告が同ストライキ中青年行動隊の一員として軍施設内またはその附近で行つた行動が軍の認識するところとなつたことを窺われないではないが、その行動も組合の指令に従つて時間的に限られた統一行動に参加したに過ぎないのみならず、本件解雇当時から見れば、既に六年以上経過した過去の事実に過ぎない。更に、前記第二、三2(5) の如く原告が星野イサ子のために育児時間を請求した事実も、右育児時間の請求が困難であつたことの証明のないこと前記のとおりである以上、職場における日常闘争という程のものとは認め難く、同(7) のランバート軍曹追放署名運動に原告が参加したとはいつても、<証拠省略>によれば、講和条約発効後軍基地内における署名運動が堅く禁止され、軍側に知られた場合には即刻労管に連絡をあるが、原告について軍から連絡を受けたことがない事実を認め得べく、このような事実を考えあわせると、軍が前記署名運動に原告の参加したことを本件解雇当時認識していたものとは到底認め難い。なお、同(9) の読書会活動、同(14)のピケ参加及び教宣活動、同(15)の編集活動を軍が認識していたと認めるに足りる証拠は全くなく、また、同(10)、(11)、(13)の諸活動は、仮りに軍がこれを認識していたとしても、本件解雇の時を去ること三年ないし四年以上の過去の出来事に属する。

このように見て来ると、原告の前記組合結成運動参加以来の組合諸活動は必ずしも特に軍の注目を惹く程活発顕著なものではないか、あるいは多少注目を惹いたにしても相当古い出来事であつて、原告が和和三四年一〇月限り支部委員でなくなり、更に同三五年二月から五月までの出産休暇により組合活動から全く遠ざかつた後において、格別のきつかけもなく、俄かに右諸活動をとり上げて本件解雇に及んだものとは到底考えられない。

それ故、本件解雇が原告の組合活動を理由とする不利益取扱であるから無効であるという原告の主張も採用の限りではない。

第三、以上の次第であるから、本件解雇の無効を前提として給料等の支払いを求める原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく失当として棄却すべきものとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 川添利起 園部秀信 西村四郎)

債権目録<省略>

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